JOMON

日経新聞の夕刊に1月22日(月)から、「縄文の声を聞け」という連載が始まった。

国学院大教授小林達雄氏の半生を綴ったもの。

第1回目はこんな文章で始まる。

『「JOMON」(縄文)が、世界の関心を集めている。自然とともに生き、弥生時代のほぼ十倍に相当する一万年という超長期にわたって安定的な生活を営んだ縄文人の知恵が見直されているためだ。』

今、学校教育の中で縄文時代を学ぶ時間はどんどん削られている。

「文字」の歴史を持たない縄文時代は、試験には出題しにくいのだろう。

しかし・・・、それで本当にいいのだろうか?

縄文を知らずして、わたしたちは、「自分」を知ることができるのだろうか?

縄文時代、わたしたちの祖先は、人を傷つけるための、人を襲うための武器を持っていなかった。

そういった類のものは、縄文遺跡からは出土していない。

わたしたちの祖先は、「一万年」もの長きにわたり、争わずに生きてきたのだ。

もし、わたしたちが本当に「平和」を望むなら、縄文時代から学ぶことは多いはずだ。

わたしたちはその平和な世界を築いた縄文スピリットを受け継いでいるのだから・・・。

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5000年前の人たち、5000年後の人たち。

考古学の講座に通っている。

旧石器時代から中世までを遺跡調査を元に学ぶという、なんとも広範囲な講座だ。

基礎知識が無いため、90分のうちの数分は、舟を漕ぎそうになる......。

難しくてついていけない、ということなのだけど。

「もう少し勉強してから行けばよかった」と思う半面、「そんなことを言っていたら、いつまでたっても勉強しないだろし、これをきっかけに勉強すればいいじゃん!」と自分を納得させる。

一番楽しみなのが、質問の時間。

なにしろわからないことだらけなので、いろいろ聞いてみたい!

そんな質問の時間に、講師の方がこんなことをおっしゃった。

「今、わたしたちは、こうして5000年前のことを知ろうとしていますが、5000年後の人たちは、5000年前のこととして、現在のわたしたちのことを知ろうとするわけです。

そのときに、今のわたしたちの痕跡はほとんど残っていないでしょうね」

とここで、なぜかわたしのほうを向き、

「今日、あなたが身につけているものも、5000年後何も残っていないでしょう」

そして、「失礼ですが・・・」と一応前置きをされて、その方は続けた。わたしのほうを向いたまま。

「現代は、死んでも火葬ですからね、骨も残すことはできませんし。骨を残し、土器や石器を残した縄文人と、どちらがいいでしょうかね~?」と。

・・・う~ん・・・。

5000年後ですか・・・?

ネイティブ・アメリカンの政治の話では、よく「7世代先の人たちのことを考えて、まつりごとがおこなわれる」ということが言われる。7世代といえば150年ぐらいだろうか?このぐらいならば、現実味がある。

しかし、5000年後は、少々、遠い。

5000年前のことを知ろうとしているのに、5000年後を遠く感じるというのも、なんだかおかしなものだが。

講座が終わり、会場を出れば、巨大なマンションらしき建物を建設中だ。

このマンションも5000年後、間違いなく跡形もない。

いったい、わたしたちは5000年後の人たちになにを残せるのだろう?

5000年後の人たちは、この現代のわたしたちの暮らしをどう見るのだろうか?

縄文時代、人々は武器を持たず、調和の中に生きていた。

弥生時代に入り、この日本列島の中でなにかが変わってしまった。

5000年後の人たちから見たら、現代のわたしたちを調和の中にいるとは、とても思わないだろう。

今、わたしたちは、生き方を問われている。

縄文的な生き方を選ぶのか、弥生的な生き方を選ぶのか。

5000年後の人たちからつきつけられている。

・・・わたしには、そう感じる・・・。

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