神に呼ばれて

神、仏、グレートスピリット、ハイアーセルフ、、、あるいは他の呼び方をされるこの世界をこの宇宙を創られた存在。

9月に入ってからの約2週間。

これまでのわたしの人生でこの大いなる存在を、これほどまでに身近に感じたことはありませんでした。

“わたし自身”が考え、選択し、進んできたはずなのに、後で振り返るとすべてのことが、なにか見えない手によって絶妙のタイミングで起こされているように思えるのです。

そして、すべてが最高の結果を生んでいる。

それは全て“わたし自身”が考え、行動したことであると同時にすべて偉大なる精霊が、わたしをそのとおりに動かしたのだと感じるのです。

以前からこういう体験は、何度も経験していますが、さらに周りの人たちも巻き込んで(良い意味で)大きな輪になろうとしています。

必要な情報が集まり、全てのことが良い方向へと動いていく。

今起きていることが、全てわたしにとって“最善”なことなのだと信じる心、それが、さらなる良い方向へとわたしを導いていく。

そう感じています。

それは、一言でいうならば、「神に呼ばれる」という感覚なのかもしれません。

そして、この感覚はすべての人が持っているものなのだと思います。

わたしよりもずっとこの感覚が鋭い方もたくさんいらっしゃるでしょうし、ちょっと冬眠中の方もいらっしゃるかもしれません。

でも、だれもが持っているもの。

この感覚が呼び覚まされるとき、この世界も、よりよい方向へと進み始めるでしょう。

最後までお読みくださってありがとうございます。

Tipi

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空と雲と雷と

危うく、道を外れるところでした、、、。

いったいこの数日間、何が起きていたのか?

ただ、1本の道があるだけなのに、、、。

ただ、グレートスピリットへと続く道があるだけなのに、、、。

いとも簡単に道を踏み外しそうになった自分が情けない。

それでも、空が、雲が、わたしを引き戻してくれた。

おとといから読み返している北山耕平さんの

『ネイティブ・マインド』

そして、昨日の雷

すべては、必然

以前にも

道を間違えそうになったときに

雷が引き戻してくれた

いかに自分を聖なるものへと

つなぎ続けていることが難しいかを

あらためて感じた数日間でした。

最後までお読みくださってありがとうございました。

Tipi

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お菓子の国へ

2日、3日は、大谷ゆみこさんが主催するサバイバルスイートセミナーに行ってきました。

2日間で、なんと30種類ものお菓子を食べちゃいました!

でも、それは白砂糖はもちろん、黒糖も甜菜糖もメイプルシロップもはちみつも使わない体にも心にもやさしいお菓子たち。

次々に作られていくお菓子を見ているのは、まるでマジックのよう☆

食べれば、どこか懐かしく、心を穏やかにしてくれる味☆

お菓子の国に迷い込んだような、幸せな2日間でした♪

最後までお読みくださってありがとうございました。

Tipi

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今という時

今という時が

過去も未来も癒していく

今という時だけが

過去を癒す力を持つ

今という時だけが

未来を癒す力を持つ

“今”、この瞬間を

生きる

それだけが

過去も未来も

癒していく

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最後までお読みくださってありがとうございます。

Tipi

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大地の絵

今日は、エミリー ウングワレー展を見に行ってきました。

エミリーはもうすでに亡くなっていますが、アボリジニの女性です。

彼女の絵を見ていると、躍動、宇宙、生命、鼓動、愛、、、などという言葉が浮かんできます。

そして、力強さ、母なる大地とのつながりを感じます。

シュタイナーの理論に基づく絵が、宇宙と繋がる絵ならば、エミリーの絵は大地と繋がる絵。

そこには、激しいまでに“黒”が使われています。

“黒”を使うことでオレンジは母なる大地の色となり、根を下ろしていきます。

その色は母の色、女性の色。

始まりもなければ終わりもない世界に生きた女性。

彼女はどこまでも深く、母なる大地とつながっていた、、、絵を見ながらそう感じました。

最後までお読みくださってありがとうございました。

Tipi

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色との会話

色との会話
今日はパステル画の講座に行ってきました。

と言っても絵を描くというのではなく、色と遊ぶ、色と会話するという感じです。

シュタイナーの理論を元にした講座で、先生の指導の通りに描くとなんとか形になるから不思議です。

あまり考えずに色を置いていく、重ねていく、そんな感じです。

ただ、色と戯れている

それだけで癒されていく気がしました。

最後までお読みくださってありがとうございました。

Tipi

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最初の1歩

先週末は3泊4日で、山形へ出かけてきました。

東北へはあまり行ったことがなく、山形は初めてだったのでワクワク、ドキドキしながら山形新幹線に乗りました。

福島で切り離しということだったので、また違う意味でドキドキ。

間違っていないか何度も確認してしまいました。

山形へ出かけた理由は、雑穀を使ったマクロビオティックの料理を提案されている大谷ゆみこさんが行っているサバイバルセミナーに参加するためです。

ゆみこさんは、食卓から世界を変えていこうと提案されていて、とても熱いスピリットをお持ちの方です。

お話は本当にすばらしく、お料理はどれもおいしく、そこで出会った人たちもとてもステキな方々ばかりでした。

緑深い、携帯の電波も届かない、テレビも映らない場所で過ごした4日間は、夢のような時間でした。

そして、たくさんの気づきがありました。

いかに、自分に自信がなかったかということ。

自分を信頼していなかったかということ。

自分への信頼を取り戻すために、食べ物がどれほど大切かということ。

わたしは、これまで宇宙からたくさんのメッセージを受け取ってきました。

そのメッセージをスピリットは信じているのに、頭は信じていないというアンバランスな状態が続いていました。

そして受け取ったメッセージを生かしきれずにいました。

でも、その生かしきれなった原因は、わたしが母なる大地と、実はしっかり繋がっていなかったからだとセミナーに参加してわかりました。

しっかりグランディングするには本当の、本物の食べ物を食べなければ無理なのだとわかりました。

この4日間は、全ての始まり。

愛のあふれる場所で、愛のあふれる食べ物を食べ、自分自身を本当に愛するための最初の1歩。

セミナーを終えて最初に受け取ったメッセージです。

『人間は、1人1人が愛の存在』

最後までお読みくださってありがとうございます。

Tipi

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導かれるままに

明日は山形に向かいます。

大谷ゆみこさんのサバイバルセミナーに参加するために。

いったい何が待っているのかドキドキです。

全てのことが必然のように起き、導かれるままに進んできました。

このセミナーも大きな流れ、大きな輪の一部のこと。

以前は自分でこうしよう、ああしようと思い考え、考えすぎて何もできなかったこともありました。

でも、今は心に浮かんできたと同時に行動に移しているような、不思議な感覚です。

何も考えていないような、無計画なような。

それでいて後で振り返ると、全てが正しい時に正しい場所で起きたとしか思えないのです。

この流れに身をゆだね、あとは何も考えずに楽しむことにしましょう!

最後までお読みくださってありがとうございました。

Tipi

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聖なる穀物

久しぶりのアップです。

2ヶ月半ぶり。

この間いろいろなことがありすぎて、なかなか文字にすることができませんでした。

心と体のバランスをとるのがこんなにも難しいことだったのか・・・と思う日々でした。

まず、苦しかったのは玄米菜食でバランスをとることの難しさに直面したことです。

これまでもマクロビオティックを続けてきましたが、かなりいい加減だったり、陰陽も適当でした。

マクロの料理教室に行き始めたのをきっかけにハードにしていったのですが、わたしには玄米と野菜でバランスをとるのはかなり厳しかったです。

そして、玄米を食べ続けるなかでわたしの中で疑問として沸いてきたことがありました。

それは、「米」は本当に日本列島に暮らすわたしたちにとって主食なのかってことです。

誤解を招かないように書いておきますが、わたしは玄米が大好きです。念のため。

大好きですが、でも、玄米と野菜でバランスをとるのはすごく難しい。

様々な中毒症状を起こしながら、これって排毒?と自分に問いかけながらこの半年過ごしてきましたが、こんなつらいことをいったい何のためにやっているんだろう?と正直思いました。

「ばっかじゃないの~? みんな肉も魚も玉子も食べてるじゃない!」となんど自分に言ったかわかりません。

でも、そう言いながらもマクロを止めようと思わなかったのは、この先に何かがあるという気がしていたからでしょう。

「こんなに食べ物があるのに、物もたくさんあふれているのに、なぜ、こんなに満たされずに多くの人が生きているの?」

そのことの答えが見つかるような気がしたからでしょう。

この2ヶ月の間、わたしのバランスをとってくれたのは“雑穀”と呼ばれている小さなつぶつぶたちでした。

わたしたちの祖先が食べ続け、大切にしてきた小さな粒たち。

日本列島に暮らすわたしたちにとっての“聖なる穀物”

それはこの小さな粒たち。

特に“ひえ”なのではないだろうか?そんなことを心と体で感じた2ヶ月間。

わたしの“聖なる穀物”を探す旅は始まったばかり。

これからも、自分の心と体と魂で感じたことを時々ですが、書き綴っていきたいと思っています。

最後までお読みくださってありがとうございました。

Tipi

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開いているひとたち

先週末は、夫とパピくん(3歳半になるパピヨンのオス)と相模原市藤野町に出かけました。

藤野町にはシュタイナー学園があり、以前から行ってみたいと思っていました。

本当は、朝早く出かける予定だったのですが、家を出たのはお昼過ぎ。

道は大渋滞。

わたしがカーナビをつけることを反対しているので、当然、わたしたちの車にはカーナビがありません。

そのため、道に何度も迷い・・・。

でも、今思えば、あの時間に家を出たことも、渋滞も、道に迷ったことも、その後に出会った人たちと出会うために全てが絶妙なタイミングで起きたとしか思えないのです。

わたしには、そういうことがよく起きます。

夫との出会いもそうでした(この話はまたいつか)。

そういうときは、後で振り返ってみると、すべてが、自分の意思とは別のところで動いているとしか思えないのです。

だれかが、あるいはなにかが、わたしと“そのひと(たち)”を出会わせるために、一見悪いことともとれるようなことを起こしている、今回でいえば、渋滞や道に迷うことやら。

でも、それはだれかとわたしを出会わせるためのこと、そうとしか思えないのです。

藤野町で出あった人たちは、本当にステキな人たちで、“開いている”ことが伝わってくる人たちでした。

中でも、ある女性との出会いがわたしに強烈な印象を与えました。

自分自身を生きている人。

相手を判断したり、分析したりせず、自分の中心を持つ人、その女性はそんな人でした。

もう少しなにかがずれていたら、出会わなかった人。

でも、全てはその人と出会うために起きた、そう思えるのです。

夫も藤野町を気に入り、これから何度となく訪れることになりそうです。

そして、またあの女性と会うことになるでしょう。

そして、わたしの人生を大きく変えるなにかが動き出す、そんな予感がしています。

最後までお読みくださってありがとうございます。

Tipi

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ハンドヒーリング

先日、ネイティブアメリカンつながりの友人Nちゃんが、突然、遊びに来てくれました。

彼女は少し前までハワイにいて、たくさんのいいエネルギーを運んできてくれました。

そのせいか、ここ数日とっても体調もよく、なんだかパワフル!!!

しっかりグランディングしながら、開いた状態で、ちょっとハイになっている自分がいます(^^)

お昼に、マクロビ風ノンオイル和風パスタをわたしが作り、Nちゃんがレイキを取り入れたハンドヒーリングをしてくれました。

レイキのことは、本で1度読んだだけで詳しいことはあまりわかりませんが、と~っても気持ちよく、一瞬寝てしまいました。

でも、その眠りも一瞬なのにとっても深く、目が覚める直前に、「あ~寝てたんだ~、あっ目が覚める」と眠っているのに目が覚めているような、なんとも不思議な感覚でした。

それに、Nちゃんの手が体から離れた後もそこに手があるような感じがして、これも不思議な感じでした。

目には見えない、でも、たしかにある力というものを感じたステキな体験でした♪

最後までお読みくださってありがとうございました。

Tipi

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「視る」ことで生まれる「愛」と「平和」

ここに思いつくままに言葉を綴るようになって、1年が経ちました。

早いものです。

初めは、この地球上で起きていることを、私自身が確認する意味も込めて書いておりましたので、自分自身に向けた言葉としての色合いが強かったように思います。

そして、世界で起きていることについてわたしがここで触れることで、少しでも関心を持ってくださる方がいれば・・・と願っておりました。

今、世界は急速にひとつになろうとしています。

良い意味でも、悪い意味でも。

地球上で起きている様々な出来事のスピードが加速していることを感じ、夏至を前にして、ここに記す内容を少しずつ変えてまいりました。

その中で、何度となく触れてきたことは、「視る」ということです。

自分自身の心をあるがままに「視る」ということです。

肯定も否定もせず、言葉も思考もはさまずに、あるがままに「視る」ということです。

自分自身の心をあるがままに「視る」ということは、ある種のエネルギーが必要です。

そして、「視る」ということは、自分自身と共に「ある」ということです。

そして、「視る」ということは、自分自身を愛することです。

わたしたちは、誰かに愛されることを望み、誰かと共にいることを望んでいます。

でも、あなたに一番愛してほしいと望んでいるのは、あなた自身であり、あなたに共にいてほしいと願っているのはあなた自身なのです。

どうか、この地球が誕生してからたった一人の大切なあなたという存在を、あなた自身がまず初めにたくさん愛してほしいのです。

「視る」ということで生まれる「愛」と「平和」が、世界を変える力になることを祈りつつ・・・。

最後までお読みいただきありがとうございます。

そして、これからもよろしくお願いいたします。

Tipi

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父の死

パソコンの状態が悪く、結果としてこのブログのアップをせずに放置してしまいました。

この間、いろいろなことがありました。

今年の5月には、わたしは「怒り」というものを視ることを突きつけられました。

そして、このブログを更新せずにいた20日ほどの間で、わたしは「悲しみ」と「不安」、「恐怖」を視ることになりました。

それらから逃れようかと思いましたが、それはできないことでした。

「悲しみ」は、父の死であり、「不安」、「恐怖」は幼いころの父の母に対するDV(ドメスティック・バイオレンス)によるものでした。

父は、すい臓がんにより2年半前にこの世を去っていました。

しかし、その事実を知ったのは、わたしがこの夏のお盆休みで田舎に帰省したときでした。

さまざまな理由により、この事実にわたしが触れたのは、この夏となってしまいました。

大人のとしてのわたしは、ある程度冷静にその事実を受け止めることができました。

しかし、わたしの中の子どもの部分は、それを容易には受け止めることができませんでした。

これは、わたしにとっても予想外のことでした。

なぜなら、以前に何度も、子どものころの悲しみ、苦しみというものを解放することをおこなっていたからです。

しかし、「不安」や「恐怖」というものをわたしは、視ていなかったのです・・・。

幼いころのわたしにとって、父の母に対する暴力は、嵐のようなものでした。

わたしは、息を殺してその嵐が通り過ぎるのを、たったひとりでおびえながら待ちました。

わたしは、いつのまにか「不安」も「恐怖」も視ないようになっていました。

そうしなければ生きてこれなかったからです。

でも、父の死により、わたしはそれらを視ることになりました。

あるがままに・・・。

そして、わたしは、“今”をあるがままに視るということを、本当に理解し始めたことに気づきました。

・・・わたしが、ここにこうして父の死について記すことができるのは、わたしが父のことを許しているからです。

父もあのころとても苦しんでいた、深い悲しみを背負って生きていた、そのことを理解しているからです。

父は、この世での肉体という重しを脱ぎ、本来の光の姿になりました・・・。

最後までお読みいただきありがとうございます。

Tipi

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悲しみと喜びと

先日、夫の実家のシーズー君が亡くなりました。

15歳でした。

偶然、彼の最期のときに居合わせたわたしは、彼とふたりだけになったわずかな時間に、彼にそっと話しかけました。

みんな、いつかは光の世界に帰るのだということ。

みんな、そこから来たのだということ。

この世界に来ることを自分で決めたように、帰るときも自分で決めるのだということ。

光の世界に帰れば、みんな一つなのだということ。

なんの心配もいらないのだということ。

そういったことを静かに彼に話しかけました。

それから、1時間もたたないうちでした。

彼が光の世界に帰っていったのは。

…そして…。

午後には、わたしのほうの親類の結婚式があり夫と共に、出席しました。

とても厳かな式でした。

静かなときがゆっくりと過ぎていきました。

披露宴は、新郎新婦の人柄が伝わってくる温かいものでした。

幸せな笑顔にあふれたステキなものでした。

……光の世界へ旅立ったシーズー君は、今頃、愛の中でゆっくりと休んでいることでしょう。

たくさんの思い出をありがとう。

やんちゃなパピ君をしょうがない弟だな、とでもいうように大目にみてくれてありがとう。

あなたのこと忘れないよ。

そして、Cちゃん、結婚おめでとう。

いつも朗らかなCちゃんだから、結婚生活も笑顔いっぱいの毎日になるでしょう。

末永く、お幸せに。

1日の中に悲しみと喜びとが半分ずつ。

人生とは、どちらかだけではなりたたない、両方あってこそ生きているといえるのでしょう。

……そんなことをあらためて感じた1日でした。

すべては偉大なる精霊のとりはからい、そんな気がいたします。

最後までお読みいただきありがとうございます。

Tipi

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自分を視ること

これまでにこのブログの中で、何度か 視ることについて書いてきました。

それでは、自分自身を視ることとは、自分自身の心の動きをただあるがままに視るとは、どういうことなのでしょうか?

多くの場合、わたしたちは、怒りや悲しみ、苦しみ、不安といった感情を不快なものとして、遠ざけようとします。

それらをごまかそうと愚痴をこぼしたり、お酒を飲んでみたり、ギャンブルをしてみたり、薬物に手を出したりする人もいます。

でも、残念ながらそれらでごまかすことはできないのです。

それらから逃げることもできないのです。

なぜなら、怒りや悲しみ、苦しみ、不安というものは、わたしたちが生まれた時から、いえ、生まれる前から、わたしたちの中に、インプットされているからです。

このことは、とても大切なことです。

わたしたちの中に、初めからあるものをどうしてごまかすことができるでしょう?

どうして逃げることができるでしょう?

それともそれらの不快な感情は、初めからあるものではないと思われますか?

それでは、なぜ、悲しみも苦しみもうれしさも喜びも“それ”とわたしたちはわかるのでしょうか?

赤ちゃんは、誰かに教えられた訳でもないのにあやされると嬉しそうに笑います。

子どもは、これが不安だよなどと教えられないのに迷子になれば、泣き出します。

わたしたちの中に、それらは始めから“ある”のです。

どうか、そのわたしたちの中に“ある”ものを否定も肯定もせず、ただそのままに視ていただきたいのです。

あるがままに視た時、心はどのようになるのか、ご自身で確認していただきたいのです。

自分自身を視ることは、自分自身を愛することに通じています。

このことは、また別の機会に書きたいと思っております。

自分自身を愛することに目覚める方が増えていくことを祈っております。

最後までお読みいただきありがとうございます。

Tipi

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見ることと視ること

わたしは、これまでこのブログの中で、何度か、視るという字を使ってきました。

あえて、見るではなく視るを使ったのには理由があります。

それは、この2つの字を使い分けることによって、肉体的なことと心的なことを区別して表現したかったからです。

見るを物体を目がとらえ、脳が知覚するという肉体的な活動を現すときに使い、視るを心の動きを観察するという内面的な活動を現すときに使ってきました。

わたしたちは、誰かと会話をするときに、その相手を見ながら話します。

目は相手を見て、耳は相手の言葉に向いています。

では、その時、わたしたちの心はどのような状態にあるのでしょうか?

わたしたちはこの時、自分自身の心を視ているでしょうか?

これはとても大切なことです。

もし、わたしたちが自分自身の心をただあるがままに視たとしたら、その時どのようなことが起きるでしょうか?

わたしたちは誰かと会話するときに、自分と意見が同じ、あるいは近いときは共感します。

でも、意見が違うときや相手が自分を傷つけるようなことを言ったとき、わたしたちの心はどのような状態にあるでしょうか?

わたしたちはその時に、あるがままに、自分自身の心の動き視ることができるでしょうか?

たいていの場合、そのような状況になるとわたしたちは不快になり、相手を非難します。

しかし、これは本当に、自分自身の心の動きを視ているのでしょうか?

相手を非難せず、そして、自分自身のことも非難せずに、ただあるがままに心の動きを視るとき、そこにはいったいなにがあるのでしょうか?

どうかご自身で、そのことを確かめていただきたいのです。

ただあるがままに心の動き視たときにそこにあるものに、あなたが癒やされますことを祈りつつ…。

最後までお読みいただきありがとうございます。

Tipi

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カモシカから学んだこと

去年のゴールデンウィークのことです。

わたしは、群馬県長野原町に建設が予定されている八ッ場(やんば)ダムの底に沈む場所にいました。

その日の朝、わたしにはカモシカに会うことがわかりました。

そして、外へ出ると、カモシカがどこにいるのかもわかりました。

そちらへ歩いて行くと、20mほど離れた林の中で、2頭のカモシカが朝の食事をしていました。

以前は、野生動物を見かけることは、あまりありませんでしたが、最近はダム建設の影響で、彼らの居場所はどんどん狭くなっています。

しばらく、そっと彼らを見つめていると、1頭がわたしに気づき、わたしたちはしばらく見つめあいました。

わたしは、カモシカに話しかけました。

そして、わたしたち人間のしていることを必死に謝りました。

すると、周りの景色が美しくとけあい、20mはあった、カモシカとの距離は、ほんの1mもないように感じました。

そして、わたしのすべては、時間と空間にとけるように混ざりあい、圧倒的な幸福感に包まれたのです。

それがどれくらい続いたのかはわかりません。

そして、あの時のことを言葉にするのも難しいのですが、ただただ、愛に包まれていた、という表現が一番近いと思います。

わたしたちは、誰かを愛したり、何かを愛したり、誰かに愛されることを望んでいます。

でも、愛は、誰かや何かに向かうものでもなく、誰か、あるいは何かから与えられるものでもなく、いたるところに存在しているのです。

わたしたちがただ、心を開きさえすれば、それを感じることができるのです。

カモシカは、そのことをわたしに教えてくれました。

わたしたち一人一人がそのことに気づいたとしたら、わたしたちの生き方は、どのようなものになるのでしょう?

わたしたち一人一人がそのことに気づいたとしたら、この世界はどのような世界になるのでしょう?

このときのことを、わたし自身が理解するのに1年以上の時間がかかってしまいました。

そして、わたし自身まだ未消化な部分があることも事実です。

それでも、ここにこうして書かせていただいたのは、今、目覚めようとしている人が増えているからです。

今、あなたがこれを読んでいることも偶然ではないのです。

もう、すでに、あなたは目覚め、愛に包まれた日々を送っていらっしゃるかもしれませんね(^^)

あなたとわたしを結びつけてくださった偉大なる精霊に感謝しつつ…。

最後までお読みいただきありがとうございます。

Tipi

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やんばの精霊

どうやら、このことに触れずに、わたしが前に進むことはできないらしいです。

そもそも、このブログを始めた理由のひとつが、このことを書くためでした。

わたしは、生まれる前の少しの時間と、生まれてからの少しの時間、そして幼いころのたくさんの時間を、群馬県の西部の長野原町というところで過ごしました。

この場所は、八ッ場ダムというダムの底に沈む予定の場所です。

八ッ場と書いてやんばと読みます。

今、この地では木々がなぎ倒され、大地が削られ、無残な姿へと毎日毎日変わっています。

この地には、川原湯(かわらゆ)温泉という温泉街があります。

坂に張り付くように立ち並ぶ温泉街には、かつてはお客さんたちの下駄の音が鳴り響いたものです。

今はその温泉街も立ち退きにより、昔の面影はありません。

吾妻川をはさんで反対側には、川原畑(かわらはた)というのどかな風景の広がる場所があります。

この地からは、縄文時代の遺跡も見つかっています。

わたしの家族が縄文時代からここにいたとは言いませんが、とても古くからこの地にいた一族であると聞いたことがありました。

しかし、この地も姿を変えています。

ありとあらゆる場所が姿を変えてしまいました。

幼いころ、カブトムシを取った木も今はもうありません。

どんぐりを拾った場所もすっかり姿を変えてしまいました。

それでも、このやんばには、今も精霊が住んでいます。

わたしには、精霊の声が聞こえます。

いえ、みなさんが住んでいるその場所にも精霊は住んでいるのです。

アスファルトやコンクリートをめくりあげれば、あなたに大切なことを必死に伝えようとしている精霊の声が聞こえるはずです。

あなたが精霊に話しかければ、アスファルトの下からでもあなたに返事をしている声が聞こえてくるでしょう。

やんばの地は、あなたと精霊をつないでくれる場所です。

あなたがもしこの地を訪れ、精霊に話しかけたならきっと精霊の声が聞こえてくるでしょう。

それは、あなたにとても深い癒しを与えてくれるはずです。

私自身は、生まれる前からダムに反対です。

その気持ちは今も変わりません。

でも、ここでみなさんに、「ダムに反対してください」と言いたいのではありません。

ただ、知っていただきたいのです。

これが、この日本列島で起きている現実だということを知っていただきたいのです。

こういったことがこの日本列島のあちこちで起きているということを知っていただきたいのです。

地球温暖化で氷河が溶けるかもしれない、シロクマの生きる場所がなくなるかもしれないということを知ることも、とても大切なことです。

でも、わたしたちの足元で起きていることにも、目を向けていただきたいのです。

わたしたちの全ては、つながりあっています。

動物たちの生きる場所が無くなるということは、わたしたち人間の住む場所が無くなるということです。

今は、正しいと思われることも長い長い地球の歴史からみたら、正しいことではないかもしれません。

長くなってしまいましたが、もしお時間がございましたらこちらもご覧くださいませ。

やんばの四季の様子と、やんばに生きる生き物たちの姿がご覧いただけます。

やんばの四季

やんばの生き物たち

最後までお読みいただきありがとうございました。

Tipi

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無題

デジカメの調子が悪い。

「パソコンの次はデジカメ・・・。

でも、これもまたなにか意味があるのだろう」と思っていると、

昨日、ある方から電話をいただき、その電話で、わたしが大切にしてきたものを失ったことを知らされた。

正確に言うと、失ったではなく、奪われたことを知った。

この日がいつかくることをずっと前から、覚悟してきた。

それでも、電話を切り、しばらくすると深い喪失感と悲しみ、そして強い怒りに襲われた。

しかし・・・、わたしは、それらをただあるがままに視た。

あるがままに、一切の言葉さえもはさまずに。

すると、失ったはずのそれが、わたしの目の前に生き生きとよみがえってきた。

“それ”は、わたしの目にしっかりと焼きつき、そして、わたしの魂にしっかりと刻まれていたのだ。

“それ”と共にあった、さまざまな時がわたしの目の前にあった。

それは、懐かしく、そしてあたたかな時間だった。

いつのまにかわたしは泣いていた。

しかし、それは悲しかったからではなかった。

ただ、ただ、涙がこぼれていた。

そして、わたしはなにかあたたかいものに包まれていた・・・。

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静かなひととき

最近、夜寝る前のわずかな時間、家の中の電気を消して、ベランダに置いてある椅子に座り、ボーっとすることが多い。

一日のことをぼんやり考えたり、月や星に話しかけたり。

なにも考えずにただ座っていることも多い。

これが一番多いかも。

なにも考えず夜空を眺めていると、ふと自分が何かに満たされている感覚をおぼえる。

それを言葉で言い表すのは難しいけれど。

・・・その感覚に包まれてわたしは眠りにつく。

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夏至からの時

昨日は、たくさんの夏至の祈りが捧げられ、そして、夜は、キャンドルナイトに参加された方も多かったのではないでしょうか?

6月に入りパソコンの状態が悪く、ほとんど更新のできなかったこのブログですが、夏至が過ぎ、パソコンもどうやら復活したようです。

夏至までの時間は、自分を視る時間であったと共に、母なる大地の声を聴く、大切な時となりました。

そして、あらためて、“自分自身”が、“平和な存在”であることの大切さを感じました。

“わたし”に生まれた“平和”と、“あなた”に生まれた“平和”が“世界の平和”へとつながることを祈りつつ・・・。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

Tipi

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夏至までの時

パソコンの調子が悪い。

メールのチェックもできなければ、インターネットも接続不能。

これまでも、何か大切なメッセージを受け取る時は、電化製品が誤作動することが何度もあった。

今回も、おそらくはそれ。

夏至を前に、しっかりと祈りを捧げ、母なる大地からのメッセージを受け取りなさいということなのだろう。

そのメッセージのひとつは、 電気を使うのを可能な限り減らしなさいということだと感じている。

というわけで、今回は、携帯からの更新ですが、夏至が過ぎるまでは、このブログのアップはありません。

わたしが、メッセージをちゃんと受け取ることができれば、パソコンの調子もよくなることでしょう(^_^;)

これまでもそうでしたので。

夏至の日には、世界中で、平和のために祈りが捧げられます。

ご縁があり、このブログを訪れてくださった皆様が、夏至の日の朝のほんの少しの時間、世界の平和のために祈りを捧げてくだされば、それは、世界中で捧げられる祈りとひとつになり、世界を動かす大きな力となることでしょう。

そう信じつつ..。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

Tipi

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木々たちの歌声

先日、家の近くの、かろうじて緑の残る場所を、通りがかった時のこと。

もうすでに、あたりは薄暗い。

ふと、その緑の中から、歌声が聞こえてきた。

空耳…?

そう思いながらも足を止める。

すると、また、聞こえる。

でも、それは、束の間。

その後は、ただ、風にこすれる葉音が聞こえるだけ。

あれは、木々たちの歌声?

あの美しい声は、木々たちの声?

もしかしたら…、庭の木々も、ベランダの花も、部屋の中の観葉植物も、唄を歌っているのかもしれない。

耳をすませば、彼らの美しい歌声が聞こえてくるかもしれない…。

ただ、わたしたちが聞こうとしないだけ。

耳に残る美しい歌声の余韻に浸りながら、そんなことを思った。

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浄化

もうずいぶん前になるけれど、男友達に、「ティピはいつも逃げている」と言われたことがあった。

そう、あのころのわたしは、逃げてばかりいた。

寂しさ、悲しみ、苦しみ、痛み・・・。

それらの感情から逃げるために、毎晩のように飲み歩き、身体を壊したこともあった。

仕事関係でもらったディスコ(あのころはクラブじゃなかった!)のVIPカードを手に、夜な夜な踊っていたあのころ。

すべてをごまかすために。

自分が絶望しきっていることにも気づかず、大切な人を傷つけていることにさえ気づかなかった。

・・・そして・・・、今、そのときに「視る」はずだった心の動きを、見つめている。

ただ、肯定も否定もせず、ただ、心の動きを見つめている。

その、ときに苦痛を伴う作業は、わたしにとっての浄化なのかもしれない・・・。

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動揺

明日、いや、もう今日なのだけれど、実家へ行く。

でも・・・。

どうにも心の揺れが治まらない。

少々、自分自身が不安定だ。

受け入れなければならないことが多すぎて、混乱している。

過去に失ったものと、今、失おうとしているものとの間で、自分が混乱している。

視るべきものは、“今”であるはずなのに、過去へ逃避しているだけなのだろうか?

今失おうとしているものを、直視しようとすると、胸が痛い・・・。

・・・自分を失いそうな恐怖感に襲われる。

だから、過去へ逃げているだけなのか・・・?

だから、なにかへ逃げようとしているだけなのか?

今のわたしにとって、過去へ逃げることも、なにかへ逃げることも、「母なる大地」とのつながりをまた失うということだ。

「視る」ことによってのみ、「母なる大地」とつながり続けることができる。

頭で理解していることも、心は、それを拒否している。

・・・「視る」ことを恐れている・・・。

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赦し

ここ数日、パソコンの前に座ることができなかった。

生きているといろいろなことがある。

だれもがいろいろなことを経験して生きている。

時に、つらいこと、悲しいこと、苦しいことに直面し、うろたえ、歩くことさえできないと感じることもある。

これまでの人生の中で大きな喪失感を味わったこともある。

両親が離婚し、“父親”という存在を失ったときがそうだ。

そして、お腹の中に宿った小さな命を失ったとき。

これらの悲しみを“乗り越えて”生きてきた。

でも・・・。

今回の出来事が、わたしにまったく違うことをつきつけてきた。

それは、“乗り越える”ではなく、“悲しみ”を、“苦しみ”を、“怒り”を、“憎しみ”を、“喪失感”を、“絶望”を・・・、ただ、あるがままに“視る”ということ。

自分に近い人間の非情な行為。

裏切り。

それによる自分の心の動きをあるがままに視る・・・。

そして・・・、やがて訪れた“赦し”・・・。

自分の心の動きをあるがままに視たとき、

そこにあったのは、それは、まったく予想していなかったことだが、“赦し”であった・・・。

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続きのない夢

最近、夢をよく見る。

この夢がまたリアルで、場面の展開が早く、起きるとなんだかぐったりしている。

バベルを見た影響かもしれない・・・」などと思いつつ、夢の中で夫にその夢の話をするなどというややこしい夢を見たりもしている。

その状況もとてもリアルで、夢だか現実だか区別がつかず、起きてから夫に確認したほどだった(^^;)

以前ここに書いた「続きのある夢」以外の夢は、ここのところほとんど見ていなかったので、正直、かなりとまどっている・・・。

これもなにか意味があるのか、単なる「バベル」の影響か?今日もまた夢を見るのだろうか?と少々心配。

・・・ぐっすり寝たいです・・・。

『これから「バベル」をご覧になるみなさまへ』

これは、夢の話とはなんら関係ございません。

「バベル」を見て、具合が悪くなった方がいらっしゃるようですが、わたしも少々疲れました。

画面の切り替えが早く、意図的なのだと思いますが、カメラが揺れているような映像が多いです。

上映時間も長いので、体調のよい日にご覧になられることをお勧めいたします。

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石のお話

わたしは、いくつかの「石」を持っている。

クリスタルのようにお金をだして買ったものもあるけれど、一番付き合いが長く、一番大切なのは、小学生のときに拾った「石」。

なんの変哲もないその石が、わたしにとってなぜ大切なのかと言えば、その石がわたしが生まれた土地の石だから。

自分の小指の先ほどの小さなその石は、わたしのこれまでの人生を見つめてくれていたような気がする。

25年以上にわたって、その石はわたしのそばにずっといて、ふと周りを見回して、その石以上につきあいの長いものはないことにあらためて気づく。

小さなその石は、わたしと生まれた土地とをつないでくれる大切なもの。

いとしきもの。

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風の唄を聴き

風の動きを感じ

風と遊ぶ

木々たちは風とたわむれ、葉裏を見せる

それは、銀色に輝き、一枚の布を織りあげる

幼き頃の風との思い出

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心の静寂

心を

ただ、心の動きを

あるがままに視る時

そこに静寂が生まれる

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内なる光

わたしたちは、日々、様々な色を知覚している。

赤、橙、黄、緑、青、紫、茶、白、黒・・・。

思いつくままに書いてもこれだけの「色」がある。

しかし、わたしたちが知覚し、処理している色の数は、一日、1万色以上とも言われている。

わたしたちの視覚能力は、目で見たものを、脳で、瞬時に知覚するというすばらしい機能を持っている。

なにかを「見る」という行為は、物体と目と脳があって初めて成立する。

ここでもうひとつ忘れてはならないのが、「光」という存在。

テレビやパソコンの画面のように、自らが発光しているものを除き、わたしたちがなにかを「見る」ときには、「光」が必要だ。

光が物体にあたることによって、わたしたちは初めて何かを知覚することが可能となる。

わたしがなぜ、こんなことを書いているかというと、以前、「色」に関わる仕事をしていたことがあるから。

「色」について学びだすと、きりがなく、しかもその分野は自分が学ぼうと思えば、さまざまな分野にまたがっている。

学んでは、また掘り下げ、学んではまた違う分野も学び、ということを繰り返しているうちに、浮かんだあるひとつの疑問と答え(らしきもの)。

それは、

『人とは、いったいなんなのか?』

『人とは、光、あるいは光の一部』

わたしたちの体を、それぞれひとつのものとして、つなぎ合わせている目に見えない力。

それは、おそらくは、「光(の一部)」。

わたしたちは、自然の力を感じ、自然から生かされていると感じる。

その力は、わたしたちの内側にも宿り、わたしたちを生かしてくれている。

この疑問が解けたわけではないが、わたしは時々、「わたしの内なる光は、輝いているだろうか?」そんなことを考える。

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自分探し

いつ頃からだろう?

雑誌等で、「本当の自分」、「自分探し」、「自分探しの旅」等という言葉を目にするようになったのは。

「本当の自分」を求めて、聖地へ、などということもはやっていた。

正直に言えば、かつてのわたしは、そんな中のひとりだったような気がする。

セドナへと行ったのは、「自分探し」ではなかったけれど、確かにセドナへ行ったことで人生が変わったことは間違いない。

その後、カウンセラーになることを考えて心理学を学んでいたときも、心のどこかに「自分探し」という言葉が存在していた。

それでは、セドナへ行って、心理学を学んで、「本当の自分が見つかったか?」といえば、

答えは、NO。

しかし、今のわたしは、「自分」が、「ここ」にいることを知っている。

当たり前のことだ。

この当たり前のことを知るまでに、なんと時間のかかったことか!

「本当の自分」を探し求めて、どこかを旅することを否定するつもりはない。

心理学や占い、あるいは宗教に救いを求めることを否定するつもりもない。

でも、「自分」が、「ここ」にいるという単純だが大切なことに、あなたが本当に気づくとき、すべては輝きを持ってあなたの前に現れる・・・。

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セドナより丹沢?

今日もまた丹沢へ出かけた。

投票へ行ってから出かけるつもりだったけれど、夫の、「道が込む」という一言で投票は後回しに(^^;)

(無事、投票しましたが)

丹沢へは、ここ3週間で3回出かけている。

わたしもそうだけど、夫は特に丹沢へ行くとリラックスできると言う。

おまけに、「俺は悪いけど、セドナではなんも感じなかったなあ~」

「まっ、景色のいいとこだなーとは思ったけどね」などと言っている。

確かに、体のリラックス感は丹沢のほうが感じる。

それは認める。

「あー、これが“リラックス”するってことなのか・・・」と思ったほど。

これまで呼吸法や瞑想をやってみても、なかなかリラックスすることができずにいた。

呼吸法や瞑想をあれやこれやと試していたときは、「そもそも、わたしは本当にリラックスしている状態を知っているのだろうか?」

「本当に、リラックスしたことがあるのだろうか?」と思ったぐらいだった。

それが、丹沢へ行くといとも簡単にリラックスした。

呼吸法も瞑想も関係ない。

ただその場所にいると心地よい。

そして、体の機能が調整されていくのを感じる。

セドナでは、メンタルな部分の調整を感じたけれど。

丹沢へ出かけたのは偶然で、何かを期待して行ったわけではないからこそ、よかったのかもしれない。

実は身近に、「自分の場所」というのを誰でも持っているのかもしれない。

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笑顔のパピくん

昨日は、丹沢方面にパピくんを連れて出かけた。

明るい灰味がかった春の世界は、本当に美しい。

芽吹き始めた緑と、淡い色の花々。

そんな中で、持っていったおにぎりとポットに入れていった番茶で昼食。

空気がおいしいせいか、パピくんはニコニコ。

これまで、いくつかの山にパピくんを連れて行ったけれど、こんなにご機嫌なパピくんは見たことがない。

ましてや、住宅街の中にある公園では、こんなに笑うことはない。

ここへ来るのは2度目。

前回もパピくんは、ニコニコ。

確かに、夫もわたしもこの場所がとても気に入っているけれど。

なにしろ2週間前に来たばかり。

なぜかその場所は、わたしちもとてもリラックスできる。

目に見えないなにかが、その場所にはあるのかもしれない。

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お願い

最近、少しずつ、少しずつですが、このブログへのアクセス件数が増えてまいりました。

たくさんあるブログの中から、ここを訪れてくださるみなさまに、深く感謝いたします。

今日は、みなさまにお願いがあります。

昨日、「変化の時」というタイトルでここに書かせていただきましたが、今、わたしの周りでは、夏至の日の祈りへ向けてさまざまな準備がなされております。

夏至の日は、一年の中でも特別な日のひとつです。

この日に捧げられる「祈り」は、特別です。

もうすでにこれまでも、夏至や冬至といった特別な日に祈りを捧げてこられた方もいらっしゃると思います。

しかし、今年は、「これまでそういったことと無縁だった」とおっしゃられる方の「祈り」が大きな力となるはずです。

どうか、夏至の日のできれば夜明け前、ご無理であれば、朝の早い時間に共に祈りを捧げていただけたらと存じます。

『世界の平和と、母なる地球がこれからもずっと美しくあること』を心から祈る「その祈り」が、世界を変えていく力になることを信じつつ・・・。

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変化の時

『世界の平和と、地球の美しさが守られることを祈る』

そんな同じ思いを持つ仲間たちの間で、最近語られること。

それは、今が「変化の時」であるということ。

おりしも、今年は選挙の年。

本当にわたしたちが、心から「変化」を願うなら、だれかに一票を投じるか、さもなくば自分が立候補をしなければならない。

一票を持つ全員が、投票に行くこと。

それは、とてつもなく大きな力となる。

しかし、そのときに大切なのは、誰かに一票を投じるときに、その誰かにこの世の中を変えてもらおうなどと、思ってはいけない。

「変える」のは、「誰か」ではなく、「わたしたち」なのだから。

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聖なる場所

久しぶりにセドナで撮ったビデオを見た。

セドナはアメリカ、アリゾナ州にある小さな町。

ネイティブ・アメリカンの聖地であり、パワースポットとして知られている。

ヴォルテックスという地球のエネルギーが強く現れる場所が、無数に存在し、訪れた人々を癒し、時に、その人の生き方を変えてしまう。

わたしはこの地を3度訪れている。

私自身も、この地で癒され、自分の人生が変わってしまったひとり。

いや、「本当の生き方」に軌道修正されたのかもしれない。

いつか、また、わたしはセドナを訪れるだろう。

でも、それまでの間、日本にも存在する聖地、パワースポットに行ってみたいとビデオを見ながら思った。

導かれるままに・・・。

かつて、セドナに導かれたように・・・。

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「夢」の続き

もう10年、いや12,3年になるだろうか?

わたしはずっと、同じ「夢」を見続けている。

正確に言うと、その「夢」は、ストーリーを持っていて、わたしは「夢」の続きを見続けている。

そう、つまりは、「夢」に“つづく”が存在しているということ。

だからといって、毎週水曜日に続きを見るというわけではなく、その「夢」はかなり不定期で、1年に2回見ることもあれば、まったく見ない年もある。

かなりリアルな「夢」で、何年も前のものでもハッキリと覚えているものもある。

友人たちにこの話をしても、そういう夢を見ている人はいなかった。

なぜ、自分がこういう夢を見るのかが気になって、以前は、夢占いの本を読んでみたこともあった。

でも、続いていくそのストーリーを解釈していくことは難しく、止めてしまった。

昨晩、また、その夢の続きをみた。

登場人物がすこし変わり(登場人物はほとんどがわたしの知っている人たち)、ストーリーも続きではあるが、違う展開をみせてきた。

ふと、思った。

「夢」によって、「もうひとつの世界」が暗示されているのではないかということを。

わたしたちは、日々様々なことを考え、思い、行動している。

その背後には、選択しなかった、選択されなかった様々な事が、隠されている。

わたしたちがなにを考え、なにを思い、どう行動するかでこの世界は作り出されている。

それならば、別の選択をすることで、世界が変わっていく可能性があるともいえる。

そこには、「もうひとつの世界」が存在する。

・・・「夢」は、そのことを伝えようとしているのかもしれない。

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つながりあう時

今日、友人のMさんから、ガラス細工をいただいた。

色は透明な部分とブルー。

片方の手のひらに載るぐらいの小さな球体。

そして、横につながるように無数の気泡。

その姿はまるで、小さな小さな地球。

手のひらに載せるとわたしたち人類のケアを求めている、彼女の声が聞こえてくる気がする。

横につながりあう気泡が、本来の人類の姿であるならば、今、まさに手をつなぎあう時に来ているのかもしれない。

そして、「母なる大地をケアする」という本来の人類の使命を、わたしたちが思い出す時に来ているのかもしれない・・・。

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今日は満月

今日は満月。

美しい月が輝いてる。

美しいものをしっかり目に焼きつける。

それは、スピリットに刻まれてゆく…。

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たったひとりの存在

自然の中に行き、都会へ戻ってくるとリハビリに少なくとも一週間はかかる。

「でも、いつまでもそんなに時間をかけていられないし」と思い、今回は、沖縄から戻った2日後には、普段どおりの生活に戻してしまった。

ところが・・・。

これがどうやらまずかったらしい・・・。

心と体のバランスが、どうもしっくりしない・・・。

かえって、いつもよりも元に戻すのに時間がかかりそうだ。

わたしのまわりには、富士山に登った翌日に都会で普通に暮らせるつわものや、聖地を巡礼したあとでも、すんなり都会生活に入れる人もいる・・・。

でも・・・、やっぱり人それぞれ違うのだ。

わたしのようにすんなりとは、バランスを取れない人間もいるのだ。

それでいいのだ。

最近の社会の流れを見ていると、同じ考え、同じ意見を持つ人間を作ろうとしているのだろうかと感じることがある。

人と違う意見を言うことや、人と違う考えを持ちづらい社会が、そこには横たわっている。

「こうでなければならない」「こうあるべき」というのがあまりに強いと、それはとても息苦しいものになるだろう。

たいやきや人形焼のように型にはまっているほうが、自分では考えなくてすむぶん、楽かもしれない。

でも、それは、本当に「生きている」と言えるのだろうか?

わたしたちは、たったひとりの存在だ。

この地球が誕生してから、「あなた」という存在は、たったひとり「あなた」しかいない。

この地球が誕生してから、「わたし」という存在は、たったひとり「わたし」しかいない・・・。

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つながり

このところ、偶然の一致がよく起きる。

そして、わたしが、わたしにとって正しい道へ行こうとすると、物事がとてもスムーズに行き、わたしが、わたしにとって間違った道へ行こうとすると、どうやってもそちらへは行けないような力が働く。

そのことをある方に話したら、「身をまかせたほうがいいですよ」と言われた。

人とのつながりも、変わってきている。

初めて会う人なのに、「この人を知っている」と感じる人によく出会う。

そんな懐かしさすら感じるような人たちと一緒にいると、とても楽しいし、よく笑う。

そういう人たちと手がけていることは、「無理かもしれない」と誰かが言っても「大丈夫!」という人が必ずいて、最終的には、やっぱり大丈夫なのだ。

逆らわず、ゆだねる。

それが一番「自然」なことなのかもしれない・・・。

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カミングアウト

最近、できる限りの人に「祈り」の話をするようにしている。

以前は、ネイティブ・アメリカンの話をするのにも慎重だったわたしが、すいぶん変化したと思う。

ネイティブ・アメリカンに関するお話を聞きに行けば、そういう話に興味のある人ばかりだから、なんの問題もないが、そうでないところで、インディアンについて話をするのは、かなり神経を使う。

しかし、もうそんなことも言っていられないと思い、去年、カミングアウトすることにした。

この人は大丈夫そうだなと直感で思った人には、ネイティブ・アメリカンについて話すようになった。

この「直感」というのがかなり重要で、この人は大丈夫そうだと感じて話した人は、皆、ネイティブ・アメリカンに関心があるか、ごく身近に関心のある人がいたりする。

ネイティブ・アメリカンについて話すということは、本当ならばスピリチュアルなことに触れるということなのだが、現実は、そうはいかない部分が多い。

そこで、スピリチュアルなことについてもカミングアウトすることにした。

今、この日本列島に暮らすわたしたちは、分かれ道の分岐点に立っていると思う。

片方は、ジグザグの道。この道には未来は無い。

もう片方は、グレートスピリットの道。この道は調和の道だ。

わたしたちは、どちらを行くのかを選択しなければならない。

どちらへ行くのかは、わたしたち自身のそれぞれの選択にゆだねられている。

今、もう時間が無い。

誤った方向へと行きかけている。

それを軌道修正するには、多くの人たちの「祈り」が必要だとわたしは感じている。

これまでは、こういった話は避けてきた。

話し方を間違えると怪しい人と思われかねないし、なにかの勧誘かと思われかねない。

わたしにとって、ここは、そういったジレンマの息抜きの場、ガス抜きの場とも言える。

これからしばらくの間は、この日本列島で起きていること、世界で起きていることを注視する必要がある。

わたしたちがなにを考え、なにを思い、なにを選択するかでわたしたちの未来が決まる。

物質主義の破滅の道を行くのか、精神的な調和の道を行くのか、決めなくてはならない時が来ている。

その選択をするとき、「祈り」がその道を示してくれると、わたしは信じている。

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平和の祈り

今日、友人から「平和の祈り」というタイトルのメールをもらった。

そのメールには、明日、10月17日は特別な日であり、善悪にかかわらず、またポジティヴであるかネガティヴであるかに関係なく、すべての思考、感情、意図、意思が百万倍の強度に増幅されるとある。

日本では、10月17日10時17分 から、10月18日 1時17分までの間、そのエネルギーのピークは 10月17日17時10分(午後5時10分) になるという。

今日、わたしは、偶然、「ホピ 宇宙からの予言」を手にした。

以前、購入しようとして書店で注文したときは、在庫切れで手に入らないと言われた。

その本がやってきた日に送られてきたメール。

明日は、特別な日かもしれない。

明日は、いつもより強く平和を祈ろう・・・。

でも、わたしには、今日も特別な日だ。

今日は、わたしの愛する人の誕生日だ。

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祈り

世界が平和であることを願い、祈り続けて、どのくらいの時が流れたのだろう。

その祈りも、昨年の新宿の朝日カルチャーセンターでの、北山耕平さんのお話を聞いてから、それまでの祈りとは、ずいぶん違うものになった。

北山さんは、こんなふうにおっしゃった。

「声に出して、言ってみてください。恥ずかしがらずに」と。

そう、それまでは、声に出して祈るなんてことはなかった。

心の中でつぶやくだけだった。

外で、声に出すのは、かなり恥ずかしい・・・。

でも、あたりに誰もいないことを確認して声に出してみた。

そうやって祈りを捧げ始めて、1年が経った。

わたしは、なにかが変わり始めたことを感じている。

声の力を感じている。

冬至、夏至、それ以外でも何か大切なことがあるときは、夜明け前に起きて祈りを捧げた。

いつもは、なかなか起きられないわたしが、そんなときは目覚まし時計がなくても起きられた。

そんなときは、内側から誰かに起こされるような感じがした。

自分の意思ではないような、そんな気がする。

・・・今は、祈ることの大切さをあらためて感じている・・・。

世界が平和でありますように・・・。

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自分の場所

なにか自分の力では、解決できないようなことがあった時に向かう場所がある。

その場所の大切さに気づいたのは、もうずいぶん前のことだ。

生きること、そのものがつらくなった時に、眠れずにその場所へと向かった。

朝の光に包まれたその場所は、木々は朝露に濡れ、風はやさしく頬をわたり、新しい一日を生み出す力にあふれていた。

なぜ、その場所にそのときに向かったのか、言葉で説明することは難しい。

「その場所が、わたしの場所だから」

それ以外の言葉をわたしはもたない。

理屈ではないのだ。

その場所は、数年前にすっかり姿を変えてしまった・・・。

騒々しい空間に姿を変えてしまった。

その土地のスピリットが、怒りに震えているのをわたしは感じる。

わたしは、祈りを捧げる・・・。

わたしたちがした愚かな行為を許してくれるように・・・。

そして、スピリットに誓う。

もう一度、静寂を取り戻すことを・・・。

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静寂

幼いころ、圧倒的な静寂というものを経験したことがある。

その場所で、わたしは子供のころの多くの時間を過ごした。そこは、木々の中を小さな小川が流れ、リスやうさぎが駆け回るような場所だった。

その朝は、前の晩に降った雪があたりを別の景色に変えていた。

晴れてはいたが、うっすらと雲が空に横たわり、太陽は、やさしい光で世界を包み込んでいた。

雪がすべての音を飲み込んでいた。

耳は確かに聞こえているが、わたしの耳にはなんの音も届かなかった。

圧倒的な静寂が、そこにはあった。

ただ、ただ、わたしはその場に立ち尽くしていた。

このときにわたしは知ったのかもしれない。

人間がどうやっても踏み込めない領域があることを。

今、都会にはどれだけの静寂があるだろうか?

密閉性の高い建物ならば、窓を閉めれば、都会でも音の無い世界を作りだせるだろう。

しかし、それは、果たして「静寂」と呼べるものだろうか?

それは、ただ「無音」であるだけではないだろうか?

この世界から、「静寂」は、姿を消しつつある。

そのことが人間に何も影響を与えないだろうか?

日本列島で起きている悲惨な出来事は、「静寂」が無くなっていくことと、関係は無いのだろうか?

かつて、圧倒的な静寂を与えてくれたその場所も、今では、木が切り倒され無残な姿になってしまった。

それ以来、わたしはその場所を訪れてはいない・・・。

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