心待ちにしていたもの

昨日、北山耕平さんのブログ、「Native Heart」におじゃますると、わたしが心待ちにしていた本がいよいよ出版されるとある!

「ヤッター!」と心の中で叫んでしまった!

本のタイトルは、「ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ」

そして、なんと(!)、もう一冊出版されるというではありませんか!

こちらのタイトルは、「インディアンは笑う」

北山さんのブログをご覧いただければわかりますが、この2冊の本の表紙が、なんとも対照的!

「なんだか、北山さんらしいな~」と一人でにんまりとしてしまいました(^^)

わたしのブログにネイティブアメリカン関連のキーワードから、訪れてくださった皆様は、北山さんのことはみなさんご存知で、きっと、「Native Heart」も毎日のようにご覧になられているのでは?と思います(^^)

でも、ご存知ないという方のために。

北山さんは、ネイティブ・アメリカンの本を多数翻訳されている翻訳家であり、ご自身も執筆活動をされています。

さらにネイティブ・アメリカンの叡智を、わたしたちに伝えてくださるために、講座等も開いていらっしゃいます。

わたしが、お薦めする北山さんの本は・・・、

いえいえ、止めておきましょう。

みなさんが、アマゾンでも、お近くの本屋さんでも、直感で選ばれたものが、そのときにみなさんに必要なことを授けてくれると思いますので!

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遺伝子組み換え作物とバイオエタノール

今、世界中が石油代替エネルギーとして、“植物”に注目している。

さとうきび、パームヤシ、トウモロコシ等から作られるバイオ燃料だ。

米国とブラジルが世界の約7割のエタノールを生産している。

ブラジルのバイオエタノールは、主にさとうきびから生産されている。

米国のバイオエタノールは、主にトウモロコシから生産されている。

米国では、作付けの約6割が遺伝子組み換えのトウモロコシ。

トウモロコシの約20%がエタノールに使われている。

相当量の遺伝子組み換えトウモロコシが、バイオエタノールに使われていると想像される。

シカゴ市場では、トウモロコシの需要の拡大をみこんだファンドのお金が流れ込んでいる。

このマネーがシカゴ市場の相場を押し上げ、トウモロコシの価格は、かつてない勢いで上昇している。

つまりは、トウモロコシは、今、もっとも魅力的な投資先のひとつになっているということ。

最近は、日本のマスコミもバイオエタノールのことを取り上げている。

しかし、その原料が遺伝子組み換えのトウモロコシであることは触れられていない。

「燃料として燃やしてしまうので、たとえ遺伝子組み換えのトウモロコシを使っても、環境、ならびに人体に与える影響はない」という意見もある。

しかし、米国ではこんな遺伝子組み換えトウモロコシが存在する。

『その遺伝子組み換えトウモロコシを食べた害虫は、トウモロコシのどの部分を食べても死んでしまう』

これは、害虫からトウモロコシを「守る」ために遺伝子操作されているから。

このようなトウモロコシからできたバイオエタノールを燃やして、“本当”に、問題はないのだろうか?

ネイティブ・アメリカンと呼ばれる人たちにとって、トウモロコシは聖なるもの。

生命そのも。

彼らが大切にしてきたトウモロコシが、今、「彼らの母なる大地」を蝕んでいる・・・。

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メイナク族

-----「幸せ」という言葉を持たずに暮らしている人たちが、この地球上にいる。-----

昨日は、新横浜で行われたビデオ上映会へ行ってきた。

アマゾンの奥地で暮らす「メイナク族」を撮影したもの。

この「メイナク族」こそ、「幸せ」という言葉を持たずに生きる人々。

彼らは自然の中に生き、自然と共に暮らしている。

そんな彼らは、「自然」という言葉も持っていない。

彼らは、いつも「幸せ」の中に生きている、だから彼らには、「幸せ」という言葉は必要がない。

彼らの生き方が、「自然」の一部であるからこそ、「自然」という言葉も必要がない。

「みんな」が穏やかに健康に暮らせることが、彼らにとっては一番大切なこと。

「幸せ」を常に追い求め、実は自分の手のひらから、「幸せ」がこぼれ落ちていくような生き方をしているわたしたち「日本人」。

「美しい国」を作ると言い、「開発」という言葉を使って破壊の限りをつくし、偽物の「自然」を「自然」と勘違いしているわたしたち「日本人」。

こどもたちには「いじめはいけない」と言いながら、この競争原理で動く社会を「正しいもの」として、なんの疑問も持たずに生きているわたしたち「日本人」。

しかし、残念ながら、彼ら「メイナク族」の暮らしも安泰とはいえないかもしれない。

今、アマゾンでは、大豆を植えるために森林が切り開かれているからだ。

大豆といえば、わたしたち「日本人」の食生活に欠かせない。

わたしたち「日本人」が、豊かな食生活をおくるために、健康によいものを食べるために、森林が伐採されていくとしたら、それは本当に「豊か」で「健康」なことだろうか?

彼らのような生活をする人々も、グローバリゼーションの渦に飲み込まれようとしているのだ。

そして、それは「豊か」な国に生きている人間たちの論理なのだ。

『わたしたち「日本人」が「日本人」である前に、かれら「メイナク族」と同じように、「母なる大地に生きるひと」であったのは、いつのころだったのだろう?』

『もう一度、その頃のスピリットを呼び覚ますのは可能なのだろうか?』

そんなことを思った一日だった・・・。

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スピリットに刻むことば

世界には様々な問題があって、時に、身動きがとれないように感じることもある。

そんなときに思い出すことば。

「自分の最強の敵であるおのれと戦うために

 どうかわたしを強くしてください」

それはスピリットに刻むことば。

このことばは、ラコタのチーフ・イエロー・ラークのことばの一部。

このことばの最後はこう結ばれる。

『沈みゆく太陽のように

 わたしのいのちが消えゆくとき

 いささかも恥じ入ることなく

 わたしのスピリットがあなたのところへおもむけるように

 曇りのない目とともにあなたのもとを訪れる準備を

 どうかととのえさせてください』

「聖なる言の葉」 ネイティブ・アメリカンに伝えられた祈りと願い

スタン・パディラ 編・画

北山耕平 訳

マーブルトロン発行

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「ドンファンの教え」

我が家には、2歳になるオスのパピヨンがいる。

親ばか(?)だが、とてもかしこいと思っている。

と、それはさておき。

1ヶ月ぐらい前になるが、土曜日の朝、いつも行く公園に散歩に出かけたときのこと。

はじめて会うグレーのプードル君が、お父さんに連れられて散歩にきていた。

「お父さん」というのは、人間です。念のため。犬を飼っている人同士の間では、犬を連れている人が、大人の男性であればお父さん、女性であればお母さんと呼ぶのが「フツー」だから。

「おはようございます」と声をかけ、世間話をというか犬話をしているうちに、ひょんなことから、わたしがネイティブ・アメリカンに興味があるという話になった。

犬友達の人たちに、自分がネイティブ・アメリカンに興味があるなどと話すことはまれで、わたしがネイティブ・アメリカンに興味があることを知っている人は、たった2人しかいない。

なのに、なぜか初対面のプードル君のお父さんには、口をすべらせてしまった。

すると、その方は、一瞬考えて、「ネイティブ・アメリカンのどういったところに興味があるのですか?」と聞き返してきた。

どういったと言われても・・・。

初対面の人にどう説明すればいいのやら?

でも、まあつきなみにというか「暮らしとか、智慧といったことにです」と答えた。

するとまた一瞬おいて、「70年代に文化人類学的な側面からインディアンに興味を持つ人たちや、実際にアメリカに行ったり、インドに行く人たちが出てきたんですね。こちらはヒッピームーブメントですが・・・。この頃、ちょっと変わった本が話題になりましてね。書いた人は文化人類学者・・・?いや、ジャーナリストだったかな・・・?なんて名前だったかな・・・?」

「カルロス・カスタネーダ、ドンファンの教えですか?」

「そうです!その本!」

ドキッとした。

その数日前にこの本を買っていたからだ。

「ドンファンの教え」を知ったのは10年以上前だと思う。このときは、なぜか絶版になっていると思い込み、図書館で借りて読んだ。

その後、数年前に書店で見かけ、いつか買おう、買わなくてはと思いながら、そのままになっていた。

それが、この数日前に家の近くの古本屋で偶然見つけたのだ。

しかも、その日は用事があって町田に出かけており、帰り際にブックオフに寄り、「時の輪」を見つけ、「ドンファンの教え」も買わなくちゃなーと思っていたところだったのだ。

他の犬が来たので、その方との会話はそこで終わってしまった。

あれから1ヶ月近くたつが、なにかが確かに動き始めているのをわたしは感じている。

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インディアン魂

ここ10日ほど、パソコンの調子が悪く、まったくなにもできなかった。

まさにお手上げ!の状態。

とりあえず、状況を連絡すべきところには連絡し、なんとかしのいだけれど、それでもここ数日は、メールの整理で終わってしまった・・・。

数日ぐらいならば、なくてもどうにかなるパソコンという物体。

しかし、10日間使えないとなると後が大変だということを実感・・・。

そう簡単には、復旧しないということがわかった時点で、きっとこれにも意味があるんだろうなと感じた。

ちょうど、「インディアン魂」を読み始めたころ、パソコンの調子がおかしくなり始め、だましだまし使っていたのだが、上巻が読み終わるころには、完全にアウトになってしまった。

「読め!」

ってことだろうと感じた。

「インディアン魂」は上下巻の大作だ。

インディアンについてのすばらしい本は、たくさんある。

これまでもたくさん読んできた。

しかし・・・。しかしだ・・・。

この本は、別格だ!

まったく違う表情を持っている。

この本は、現代に生きるわたしたちに多くのものを与えてくれる。

ネイティブ・アメリカンの叡智を伝えるすばらしい本は、たくさんある。

しかし、この現代社会に生きているわたしたちのこの生活とそれらの叡智との間には、あまりにも大きな隔たりがあり、それらを自分のものとして生きていくのは簡単なことではない。

この「インディアン魂」は、ネイティブ・アメリカンの叡智とわたしたちとを繋いでくれるとわたしは思う。

個人的な感想を言えば、この本を読んで救われた気持ちになった。

はじめて、自分の過去を受け入れる気持ちになった。

「自分の生き方」を模索し、ボロボロになっていたあのころ・・・。

そんな過去も受け入れる気持ちにやっとなれた。

「世間」から見たら、「よい」とは言えないそんな過去も自分の中では必要なことだったのだと感じるようになった。

なにが、「正しいこと」なのか、「間違っていること」なのか。

なにが「善」なのか「悪」なのか。

さまざまなことをこの本は、問いかける。

読むべき時に読むべき本に出会う・・・。

まさにこの本はそういう本だと思う。

あなたがこの本を読むとき、この本は圧倒的な力を持ってあなたを変えてしまうだろう・・・。

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「Native Mind」

一冊の本が、人生を変えることがある。

わたしの人生に影響を与えた本は、何冊かあるが、圧倒的な何かを与えた最初の本は、この「Native Mind」だ。

読んだのは、3年前の夏の初めだった。

ネイティブ・アメリカンと呼ばれる人たちに興味を持ち始めて、7年が過ぎようとしていた。

その間にわたしは、数ヶ月をアリゾナで過ごしていたが、自分がネイティブのひとりであるということを、まったく理解していなかった。

「パンドラの箱」を開け、アリゾナから戻ってからも、以前と比べれば絶望の淵に立つことは少なくなったが、それでも「生きること」について模索していた。

アリゾナから戻ってからの3年間は、人と会うことを極端に避けた。

自分という人間と向き合う時間が、必要だと感じたからだ。

友人にも自分からは電話もせず、携帯も持たず、パソコンのメールはアドレスを変えても連絡しない・・・そんな「ひとりの時間」が流れた。

そして、この「Native Mind」と出合った。

正直に言えば、初めてこの本を読んだときに多くのことを理解したとは、とても言えなかった。ほとんど理解できなかったと言ったほうが正しいかもしれない。

でも、わたしは、「この本を書いた人に会わなければならない」と直感的に思った。

そして、インターネットで検索し、朝日カルチャーセンターでの北山さんの講座にすぐに申し込んだ。

この「Native Mind」との出会い、北山さんとの出会いがなければ、今もわたしは、さまよい続けていただろう。

心理学や精神分析や精神世界の本を読み続け、さまざまな講座を受講し、出口の見えない迷路をさまよっていたと思う。

心理学、精神分析、精神世界の本を読むことや、講座を受講することを否定するつもりはない。私自身、それらのものから多くのことを得たと思っている。

けれど、それらには欠けていることがある。わたしたちが、この母なる大地と切り離された存在になってしまっているということが、抜け落ちている。

母なる大地とつながらないままに、いくら人とつながろうとしても、満たされないものが残り続けるように、わたしは感じている・・・。

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カミングアウト

最近、できる限りの人に「祈り」の話をするようにしている。

以前は、ネイティブ・アメリカンの話をするのにも慎重だったわたしが、すいぶん変化したと思う。

ネイティブ・アメリカンに関するお話を聞きに行けば、そういう話に興味のある人ばかりだから、なんの問題もないが、そうでないところで、インディアンについて話をするのは、かなり神経を使う。

しかし、もうそんなことも言っていられないと思い、去年、カミングアウトすることにした。

この人は大丈夫そうだなと直感で思った人には、ネイティブ・アメリカンについて話すようになった。

この「直感」というのがかなり重要で、この人は大丈夫そうだと感じて話した人は、皆、ネイティブ・アメリカンに関心があるか、ごく身近に関心のある人がいたりする。

ネイティブ・アメリカンについて話すということは、本当ならばスピリチュアルなことに触れるということなのだが、現実は、そうはいかない部分が多い。

そこで、スピリチュアルなことについてもカミングアウトすることにした。

今、この日本列島に暮らすわたしたちは、分かれ道の分岐点に立っていると思う。

片方は、ジグザグの道。この道には未来は無い。

もう片方は、グレートスピリットの道。この道は調和の道だ。

わたしたちは、どちらを行くのかを選択しなければならない。

どちらへ行くのかは、わたしたち自身のそれぞれの選択にゆだねられている。

今、もう時間が無い。

誤った方向へと行きかけている。

それを軌道修正するには、多くの人たちの「祈り」が必要だとわたしは感じている。

これまでは、こういった話は避けてきた。

話し方を間違えると怪しい人と思われかねないし、なにかの勧誘かと思われかねない。

わたしにとって、ここは、そういったジレンマの息抜きの場、ガス抜きの場とも言える。

これからしばらくの間は、この日本列島で起きていること、世界で起きていることを注視する必要がある。

わたしたちがなにを考え、なにを思い、なにを選択するかでわたしたちの未来が決まる。

物質主義の破滅の道を行くのか、精神的な調和の道を行くのか、決めなくてはならない時が来ている。

その選択をするとき、「祈り」がその道を示してくれると、わたしは信じている。

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食べものとスピリットの関係

昨日は、新宿の朝日カルチャーセンターに北山耕平さんの講座を聞きに行った。

タイトルは「食べものとスピリット  ネイティブ・アメリカンに学ぶ」

わたしは、わたしが食べるものが、わたしの心と身体を作っていると思っている。

わたしの心と身体は、口にするものにとても敏感だ。

だから、普段は、口にするものにかなり気を使う。

今日ぐらいの気温で、レタスやきゅうりを口にすれば間違いなく体が冷える。

砂糖も同じだ。甘いものを大量に摂取すると体が冷えるし、精神的にも不安定になる。

基本的には、玄米菜食だ。

外で友人と食事するときなどは、そういったことは関係なくなんでもいただくが。

しかし、昨日は、おなかもすいていたし、急いでいたこともあって、何年ぶりかで、新宿に着いてから会場の住友ビルに向かう途中にあったマックに寄った。

えびフィレオサンドのセットをたのんだ。

そして、空腹は満たされた。

講座の後半にさしかかったときに、北山さんがこんなことをおっしゃった。

「食べものをいただくということは、スピリットをいただくということです」

「ネイティブ・アメリカンの人たちの中には、なにか腹を満たすために食べるだけなら食べないほうがいいという考え方があります」

う~ん・・・。

わたしは、思わずうなった。

まさに今日の自分の姿。

空腹を満たすためだけに口にした食べもの。

まずかったわけではないが、食べながら様々な考えが浮かんでいだ。

「このえびってどこの国から来たんだろう・・・?フィリピン?ベトナム?インドネシア?インドネシアと日本の間ってFTAってどうなっていたっけ?」

「このコーンポタージュってアメリカ産のコーンだろうな~。遺伝子組み換え、大丈夫なのかな・・・?アメリカ産だったらヤバイよな~」

「あーいかん、いかん、こんなこと考えながら食べること事態が体に悪い・・・」

などなど・・・。

・・・お話を聞いて、あらためて、食べものを大切にしようと思った・・・。

スピリットをいただく

深い言葉だ・・・。

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Walk in Beauty

時間も遅くなってしまったので、メールのチェックだけして、今日は何も書かずに寝るつもりだった。

でも、北山耕平さんのブログの「目の前にあるただひとつの道」というタイトルの文章を読んで、やはり書こうという気持ちになった。

思えば・・・、去年、新宿の朝日カルチャーセンターでの北山さんのお話を聞いて、わたしの人生は、すっかり変わってしまったのだ。

それまでにも、北山さんのお話を聞いたことはあったが、わたしにまったく準備ができていなかったのだろう。聞いたことだけで満足してしまい、特に大きな変化があったわけではなかった。

しかし・・・。

去年は、違った。

北山さんのお話を聞いてから数日後、わたしは、はっきりと声を聞いた。

わたしを呼ぶ声を!

わたしは、母なる大地と、自分が、一番つながることができる場所に行かなければならないと感じ、週末にその場所へと向かった。

そして、霧がたちこめ、小ぬか雨の中、祈りを捧げた・・・。

そのとき、わたしには、自分がいったい何をすべきなのかがわかった。

理屈ではなかった。

わたしの前には、わたしの道があった。

わたしが歩かなければならない道があった。

それは、紛れもない、グレート・スピリットへの道だ!

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スピリットの叫び

昨日、9月3日(日)にNHKのBS1で放送されたネイティブ・アメリカンの人たちのドキュメンタリー映画を見た。

我が家では、BSを見ることができないので、友人が録画したビデオを貸してくれた。

スピリットを震わせるような映画を見ると、わたしは涙が止まらなくなってしまう・・・。

初めて「ホピの予言」を見たときもそうだった。

「ホピの予言」を見たときは、辰巳玲子さんが祈りの唄を太鼓を打ちながら歌い始めたときから、涙がとめどなく流れた。

昨日も、映像が音楽とともに流れ始めると、ただ、訳も無く涙があふれた。

まだ、本編に入らないうちに・・・。

内容は、彼らが、今、置かれている現状についてだ。

母なる大地を「開発」の名のもとに奪われようとしている・・・。

しかし、彼らに起こっていることは、彼らにだけ、起きていることなのだろうか?

この日本列島でも起きていることではないだろうか?

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ジャンピング・マウス

先週の土曜日は、町田に古谷和子さんのジャンピング・マウスを聞きに行ってきた。

初めて耳で追うジャンピング・マウスは、目で追うストーリーとはまったく違うものだった・・・。

耳で、話をとらえ、見えてくる世界。

目に見えないものが見えてくる世界。

それは、やはり、もうひとつの世界への入り口なのだろう。

耳で、話をとらえながら、時おり、フラッシュバックのように幼いころの映像が浮かぶ。

自分の周りにあるもののすべてを、自分の家族のように感じていた世界。

山も森も、頬をわたる風も、小川のせせらぎも、そこに住むすべての動物たちも、わたしにとっては家族のようだった。

山は、いつでもわたしを見守ってくれていたし、木々たちは、やさしくわたしを包み込んでくれた。

風は、わたしの頬をなで、小川のせせらぎは、子守唄のようだった。

いろいろな動物たちも現れた。

うさぎ、りす、きつね、ねずみ、やまね・・・。

ときには熊の足跡も。

そんな幼いときの映像が、ジャンピング・マウスのストーリーとともに流れていく。

これまでの断片的な、記憶が、古谷さんの声の力によってはっきりとよみがえってくる。

葉の揺れるサワサワというやさしい音。

深い緑のにおい。

さわやかな風。

緑の間からこぼれる陽射しのあたたかさ。

炎のゆらめき。

木のはぜる音。

炭のにおい。

「頭」の中に埋もれていた記憶が、ハートで感じていたものとしてスピリットが呼び覚まされていく感覚がした。

・・・しかし、今のわたしは、あまりにも遠くへと来てしまい、その「鮮やかな記憶」にとまどいも感じている・・・。

しばらくは、この「鮮やかな記憶」と向き合うことになるだろう・・・。

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ホピの聖地

かつて数ヶ月だが、アリゾナで暮らしたことがあった。

どこまでも広がるつきぬけるような青い空。

乾いた大地。

フェニックスの空港を出たとき、なにか懐かしいものを感じた。

セドナへと向かう道を車で北へと走ったとき、理屈ではなく、「この場所を知っている」と感じた。

「ホピの聖地」へと行くこともできた。

それだけの時間は、いくらでもあった。

しかし、どうしても行くことができなかった。

「その場所は、聖地だ。行く準備のできていない者が、行く場所ではない」

そうどこかで感じていたのかもしれない。

あのころのわたしは、まだなにも理解していなかった。

にもかかわらず、始末の悪いことに、多くのことを理解したような気になっていた。

しかし、それは、ただ形だけの理解で、単なるファッションにすぎなかった。

「今ならば、ホピの聖地に行くことができるかもしれない」

最近、ようやく、そう感じるようになってきた。

それは、わたしが、自分の生まれた土地のスピリットと、しっかりとつながり始めたからかもしれない。

・・・今日、これから、その場所へと向かう・・・。

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